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チョコレートがいちまい
 私が八歳のころ、夜に父と本を買いに行ったことがある。
 もうすぐ雪が降りだす季節で、暗い中冷たく光る固いアスファルトの道を父と歩いた。
 もう寝ようとしていた時、父が「本を買いに行く」と言い出したのだ。父はいつものように酔っていた。
 母は怒ったような声で私に「お父さんと一緒に行きなさい」と言った。私はもちろんいやだった。酔った父は、ネチネチと誰にでもけんかをっふっかけ物をこわしフラフラと自転車に乗り止めると殴りかかる、という実にいやな酒だった。私は世の中の酔っぱらいは皆このようなものだと思っていて、酔った人を見かけると野良犬がいるように避けていた。
 その怖い父と寒い夜に出かけるのは絶対に絶対にいやだった。
 ぜったいに行きたくない、と言うと母は「いいから支度しなさいっ」と言った。母は酔った父が夜に出かけるという嫌な事を言い出したので、すでにものすごく怒っていた。出かけると大抵どこかの飲み屋に入って深夜遅くにべろべろに酔って帰ってきたからだ。
 もう一人小さな妹もいたので母がついていくわけにはいかない。

 私は仕方なく父と出かけた。
 歩いている人は誰もいない。今夜の酔った父は機嫌は悪くなさそうだったが、特に話しかけてもこなかった。もともと家族に話しかけたり、冗談を言ったり、ほめたり、問いかけてきたりはしない父だったのだ。
 私はちゃんと家に帰れるのだろうかと、心配で心配で胸がつぶれそうだった。
 父は私を連れてどこか知らない所に行ったり、そのままそこに置き去りにするかもしれない。そしたら私は一人で夜の道を歩いて家に帰らなくてはならない。犬とかいたらどうしよう。
 先の方に「おみせ」が見えてきた。いつも「おみせ」と呼んでいるそこの雑貨屋さんで母はいつもうどんやパンなどを買っていた。スーパーやコンビニはまだ無い時だった。
 父は「おみせ」で本を買うと思っていたが、遠くからでもそこがもう暗く閉まっているのがわかった。私はたちまち安心して足取りも軽くなった。「おみせ」が閉まっていたら父もあきらめて帰るだろう。母と妹がいる家に帰れる。
 ところが父は「おみせ」の前をすたすたと通り過ぎた。
「お父さん、どこいくの?」とまた恐怖にかられた私は聞いた。
「駅だ」と父は短く答えた。
「駅?どうして駅に行くの?お父さん」と私は聞いたが返事はなく、歩き続ける父の後を小走りで付いて行くしかなかった。
 どうして駅に行くのだろう。汽車に乗ってどこかに行くのだろうか。そうしたら本当にもう家に帰れないかもしれないのだ。どうして家を出てきちゃったんだろう。引き返す意気地もなく、私はくよくよ考え続けた。

 駅が見えてきた。
 駅舎に行くには線路の下の地下歩道を通らなくてはいけない。線路のこちら側にはホームしかなかった。
 ところが父はホームわきの土手を登り始めた。
「どこに行くの、お父さん?」仕方なく自分も登る。
 線路に出た。
「よし、行くぞ」と父は競争のスタートの構えをした。線路を横切ろうというのだ。
 私は線路を見た。何本もの線路が暗い中黒い蛇のように光っていた。
 そこは何本も線路があり、汽車がしょっちゅう通る所でもあった。
 母や学校の先生は何度も何度もしつこいくらい「踏切以外で線路を渡ってはいけない」と言った。「汽車に轢かれて首や足がもげた人を見たよ」
「お父さん、だめっ」と私は今度こそ大声を出した。「汽車にひかれちゃう」
 父はにやにやしたまま「そうかあ」と言うと土手を降り、私は助かった、とうれしいくらいだった。

 駅舎に行く地下歩道は「トンネル」と呼ばれていて、私の世界では最も恐ろしい所でもあった。
 ところどころにしか明かりがないので暗く、床も壁もじめじめと濡れていて、天井には短いコンクリートのつららができていた。
 でも「トンネル」のいちばん恐ろしいのは、頭上を汽車が通る時だった。ものすごい轟音が「トンネル」じゅうにみちあふれるのだ。私はその頭の中がしびれるくらいの音が怖くて、一人で通らなくてはいけない時はさりげなく誰かが来るのを待って一緒に通った。
 何をするかわからない酔った父と「トンネル」を通るのは不安でたまらなかったがどうしようもない。
 「トンネル」に入る。他に誰もいなくて息だけが白かった。
 父は突然「ぎゃあああ」と叫び声をあげた。「トンネル」じゅうに叫び声が反響する。父はにやにやしたまま私を見る。怖がらせようとしているのだ。私はもちろん泣きたいくらい怖かったが、怖がるともっとよくないことになりそうな気がしたので、ぐっと奥歯をかみしめて平気な顔をしていた。そして次の曲がり角で先に行って隠れていた父が「わっ」と私をびっくりさせた時も、そのまま平気な顔を続けた。

 数々の困難を越えて着いた駅は、驚いた事に明るく暖かく何人もの人が汽車を待っていた。そして売店も開いてた。
 父は売店で分厚い雑誌を買った。そしてチョコレートを買って私にくれた。
 チョコレートがまるまる一枚。
 私はそれまでチョコレートを一枚全部もらった事がなかった。チョコレートは母から一列分貰って、妹と分けて食べ、それだって滅多にあることでなかった。一枚のチョコレートの重さに驚く。私は宝石のように大事に持つ。

 帰り道の事はほとんど覚えていない。家に着いてから半分寝かかっていた母を「チョコレート買ってもらった」と起こしたらうるさそうな顔をされたので、がっかりした事だけおぼえている。
 チョコレートをどう食べたのかも忘れてしまった。ひとりで全部食べたのか、妹と分けて食べたのか。

 私達一家はその街を離れ二度と戻らなかったが、何十年も経ってひとりで行ってみた事がある。
 住んでいた家は跡形もなく、そこから駅までは歩いて十分ほどしかかからなかった。さびれてしまった駅に売店はなく、昔登った山が近々とよく見えた。
 
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【2020/08/08 10:27】 | 読書 | page top↑

 
夜のあしおと
「うわ、お父さん、血」と、玄関で妹の声がした。
もう寝る時刻で寝巻に着替えてごろごろしていた時、父が帰ってきたのだ。
「なに、どうしたの?」と母が玄関に向かう。
「どうしたの、なにその血、けんかしたの?自分でしたの?」
母がいつもより高く早口でしゃべる声がする。
母は頭の中の考えを全部言葉にだしてしまう人なのだ。「ほらあの人どうしてあっち向いて座っているのだろう、ここは風こないかしら、ああ、あんたどうしてそれ食べるのこっちの方がおいしいのに、あらあれ汚れかしら」
その母の質でいろいろなトラブルも起こったりもしたが、今はとりあえず血だ。
玄関にいくと顔いっぱい血で真っ赤になった父が立っていた。よれよれのスーツの前も血で汚れていた。
そしてもちろん父は酔っていた。酔わないで帰る日はなかったのだ。
私は10歳。この世に酔わないで帰る父親がいることをまだ知らなかった。
「どうしたのさ、どこでこんなになったの、血だらけでしょ、ええ?」と母は酔って口ごもる父に訊き続け、自転車で転んだらしい事を聞き出すと「原さんを呼んで来るからね」と隣の原さんの家に出かけて行った。
静かになった。
もう寝る時間でパジャマを着た私と妹は、酔った父がふらふらと台所へ行って蛇口をひねって水を出すのを見ていた。
「何するの、お父さん」と妹がきいた。妹は一歳年下だけどすでに言うべき時に言うべきことを言う事ができた。
父は血で汚れた顔に水をかけはじめた。
「顔を洗うの?お父さん」と妹はきき返事も待たずにタオルを取りに行った。妹は次にすべきことをよくわかっているタイプでもあった。
そして私といえばすごくほっとしていた。酔った父と怒りっぽい母が毎夜繰り広げる、恐ろしい夫婦喧嘩が起こらなかったからだ。けがをしている父を少しでも心配する気持ちがあったかもあやしい。血を流している父は、血まみれながらも酔っていつもの様にいじわるそうににやにやしてたし目はすわっていた。私のきらいな表情だ。
母が原さんを連れて帰ってきた。原さんは父と同じ会社に勤めている隣のおじさんだ。原さんの奥さんも後から入ってきた。背の高いすらりとしたきれいな人で、母と同じ歳だ。
パジャマの様な服を着た(パジャマかもしれない)原さんは、おでこのあたりらしい父の傷口を確かめてから「これは病院に行った方がいいね」と言った。
そしてばたばたと支度をした母は私たちに「ねてるんだよっ」と言って父と原さんの車に乗って出て行った。原さんの奥さんも帰っていき、また静かになった。
もう泣くような歳でもなかったけど、私は泣きたかった。私は臆病で暗いところとか変な物音などが心底苦手だった。こんな真夜中に妹と二人だけなど、考えもしないくらい恐ろしい状況だった。
「おねえちゃん、寝よう」と妹が言って、私も布団に入った。
茶の間の蛍光灯は点いたまま私と妹は隣の子供部屋に敷いた布団に入る。
「お父さんの自転車どうなったんだろうね、おねえちゃん」と妹は言うが、やがてすぐ寝てしまう。
 私はじっと天井を見つめる。わけのわからない怪しい音がしないかと耳をすませ、実際カタ、カタ、と音がしてびくつきながらもじっとしている。やがて外の道を何人もの足音とひそひそしゃべる声が聞こえる。これは怖くない。近くの工場の寮に住むおねえさんたちが夜間高校から帰ってきたのだ。もうかなり遅い時間になったという事でもある。父と母はまだ帰ってこない。何とか眠ろうとぎゅっと目をつぶる。
 だいぶ時間が経ち玄関の戸がそっと開く音がした。ばたん。
 靴を脱ぐ音がして、そっとした足音がきこえる。これは両親ではない。「どろぼうだ」と思う。
 臆病な私はもちろん目を閉じて寝たふりをする。ただひたすら怖い。どろぼうに気が付かれたらおしまいだ。布団をぎゅっと握りしめる。
 足音は茶の間を通り過ぎ、奥の両親の部屋に向かって行く。逃げたいと思うが、ほんの狭い社宅なのだ。どこにいても全部見えてしまうくらいだ。
 足音はこちらに向かってきている。もうだめだ。殺されて死ぬかもしれない。
 私はなけなしの勇気をふりしぼって目をあけて起き上がった。たった今目を覚ました風に、びっくりしたように起き上がったのだ。どろぼうらしき人に何故そんな演技をしなくてはならないのか、自分でも変だなと気が付いたのは何年も経ってからだ。
 でもそこにいたのはどろぼうや幽霊ではなく、原さんの奥さんだった。
「大丈夫?寝られる?」と原さんの奥さんは言った。私達がどうしているか見に来てくれたのだ。私はほっとしてうれしく「大丈夫」と元気よく言った。原さんの奥さんは、何かあったら来てね、と言って帰って行き、私はまた布団にはいって天井を見てから気が付いた。原さんのおくさんはどうして両親の寝室に入ったのだろう。何をしてたんだろう。
 何事も深く考えず生きていた私はそれ以上そのことは忘れて、額に包帯を巻き少し酔いの冷めた父と、疲れてさすがに口数が少なくなった母が帰ってくるまでじっと起きていた。
 母は玄関に出た私に「まだ起きていたの?」と怒ったように言い、私は原さんの奥さんが来たことを言わなかった。
 父の乗っていた自転車は近くの広めの側溝に落ちていて、タイヤがぐにゃりと曲がっていてもう使えなかった。

 何年か経ち母が「原さんの家が火事で全部燃えたんだって」と言った。
 私のうちも原さんの家もそれぞれ別の街に暮らし、それぞれ家を建てていた。
「原さんの奥さんが家にいて助けられたけど寝たきりになってるそうだよ」
 そして原さんの奥さんは隣に住んいる時から遊び好きで子供を近所にあずけたまま夜遅くまで帰ってこなかったとか、原さんの給料を殆ど使い果たしてあちこちからお金を借りていた、という話をした。
「家の中も荒れ放題だったしね」
 私は「ふーん」と聞いていたけど、あの夜原さんの奥さんをどろぼうとまちがえた事は言わなかった。父母の寝室に入っていった事ももちろん言わなかった。
【2020/07/31 22:21】 | 小説 | page top↑

 
お久しぶりね
うまく投稿できるかチェックしています。
【2020/04/28 22:19】 | 読書 | page top↑

 
世界しあわせ紀行 エリック・ワイナー
世界しあわせ紀行世界しあわせ紀行
(2012/10/24)
エリック・ワイナ―、Eric Weiner 他

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極端な貧困は幸福の助けにならない。

向かいに保育所ができた。
夕方になって中に明かりがともると、子ども達が走り回っているのが見える。

世界で一番幸せな国はどこか。
10カ国を回って、人々に「幸せですか」と訊いてまわった記者のルポルタージュ。
読んでいると、幸せとは何か自分で混乱してくる。
お金がありあまるカタールの人々。
太陽が昇らない冬のあいだ、幸せに暮らすアイスランドの人々。
整って規則正しく暮らす、幸せなスイス。
不幸な国の例のモルドバ。
幸せであるためには、誰かに必要とされて、失敗してもすべてパーになったりせず、あまり自分自身を省みたりしない。
結構ハードルが高い。
【2015/04/23 22:22】 | 読書 | page top↑

 
ドアの向こうのカルト 佐藤典雅
ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録
(2013/01/18)
佐藤 典雅

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こればかりは洗脳された信者の側になってみないと分からない。

先日行った読書会で、村上春樹が好きだという方を、何人か見つけた。
自分は昔からのファンであるが、なんとなーく大声でファンだと言えないような雰囲気がそこここにあるのだ。
何故だろう。
何かしら一段低く見られる事が多いような気がするのは、自分の勘違いなのか。
だから嬉しかったのである。

佐藤氏は、9歳から35歳までエホバの証人の信者として生活して、その後脱退した。
脱退したときは、両親、兄妹の家族、妻とその両親、妻の兄弟とその家族まで皆エホバの証人という、エホバに取り囲まれた生活。
佐藤氏は熱心な信者であったが、何事も「エホバ」「サタン」「ハルマゲドン」で話が終る信者達の話の底の浅さなどに、疑問を持つ。
そして、これまで読んできた聖書を調べながら、エホバから距離を置いていく。
置いていくと言うよりは、一人きりの戦いに近い。
じぶんの脱退を果たし、家族から父母へと、その疑問を拡げていく。
今は幸せ、と言う佐藤氏だが、エホバが彼から奪った多くのものを思うと、心が痛む。
【2015/04/19 20:41】 | 読書 | page top↑
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